うとうととして

古典を少しずつ読みます。

 商品の流通は、ただ形態的にだけでなく(『資本論 第1巻』ディーツ版133頁)

 商品の流通は、ただ形態的にだけでなく(『資本論 第1巻』ディーツ版133頁)

 

 商品の流通は、ただ形態的にだけでなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。事態の経過をほんのちょっと振り返ってみよう。実際のところ、リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。B の商品がAの 商品に替わるのであるが、しかしA と Bとが互いに彼らの商品を交換するのではない。実際には、A と Bとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うということも起こりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。商品流通では、一方では商品交換が、直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って、人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。織職がリンネルを売ることができるのは、農民が小麦をすでに売っているからこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸溜酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水をすでに売っているからこそである、等々。(『資本論 第1巻』ディーツ版126頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 ここでは、まだ、話が単純化されていて、小売業は出てきません。なので、ウィスキー屋は、ウィスキーを仕入れてきて売る業種ではなくて、みずから作って売る業種です。原文ではDestillateurです。蒸溜酒製造業者、と解釈されます。

 また、ここで聖書を売る人は、やはり、聖書を仕入れてきて売る人ではなく、みずから聖書を作って売る人であるはずです。 

 Destillateurは資本論の他の箇所にも登場します。ディーツ版197頁岡崎次郎訳では下に引用した通り酒造業者と訳されており、126頁、133頁でも酒造業者と訳してよいと思います。

 

〔前略〕というのは、それは諸商品の価格を順々に実現して行き、したがって8ポンド・スターリングという価格総額を実現してから、最後にウィスキー屋の手のなかで休むからである。〔後略〕(『資本論 第1巻』ディーツ版133頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

〔前略〕たとえば穀物は製粉業者、澱粉製造業者、酒造業者、飼畜業者などにとっては原料である。〔後略〕(『資本論 第1巻』ディーツ版197頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)