うとうととして

古典を少しずつ読みます。

機械はまた、(・・・)労働者と資本家とのあいだの契約をも根底から変革する。(資本論第1巻ディーツ版417-419頁)

 

 

機械はまた、資本関係の形式的な媒介、すなわち労働者と資本家とのあいだの契約をも根底から変革する。商品交換の基礎の上では、資本家と労働者とが自由な人〔Person〕として、独立な商品所持者として、一方が貨幣と生産手段との所持者であり、他方は労働力の所持者として、相対するということが第一の前提だった。ところが、今では、資本は未成年者または半成年者を買う。以前は、労働者は彼自身の労働力を売り、これを彼は形式的には自由な人〔Person〕として処分することができた。彼は今では妻子を売る。彼は奴隷商人になる。(・・・)機械によって労働力の売り手と買い手との法的関係に革命が引き起こされ、そのために全取引が自由な人と人とのあいだの契約という外観さえ失ってしまうのであるが、この革命はのちにはイギリスの議会に工場制度への国家干渉の法律上の口実を与えた。(・・・)
資本論第1巻ディーツ版417-419頁。岡崎次郎訳。)


[註]自由な人と人とのあいだの契約:ein Kontrakt zwischen freien Personen

Personはここでは人格と訳した方がよいかもしれない。

 

 

工場法が工場やマニュファクチュアなどでの労働を規制する限り、このことは当初はただ資本の搾取権に対する干渉として現われるだけである。ところが、いわゆる家内労働の規制は、いずれも、ただちに父権の、すなわち近代的に解釈すれば親権の、直接的侵害として現れるので、このような規制処置をとることには、思いやりのあるイギリス議会は長いあいだためらっているようにみえた。とはいえ、事実の力は、ついに、大工業は古い家族制度とそれに対応する家族労働との経済的基礎とともに古い家族関係そのものをも崩壊させつつあるということをいやおうなしに認めさせた。子供の権利が宣言されざるをえなくなった。

      (資本論第1巻ディーツ版513頁。岡崎次郎訳。)