うとうととして

古典を少しずつ読みます。

作業隊制度は、近年ますます拡大されてきたが(ディーツ版23巻724-725頁)

作業隊制度は、近年ますます拡大されてきたが、それは明らかに隊の親方のために存在するものではない。それは大借地農業者かまたは大地主の致富のために存在するものである。借地農業者にとっては、自分の手元におく労働人員を正常の水準よりもずっと少なくしておきながら、しかもどんな臨時の仕事のためにもつねに臨時の人手を準備しておき、できるだけわずかな貨幣でできるだけ多くの労働を取り出し、成人男子の労働者を「過剰」にするためには、この制度以上気のきいた方法はないのである。一方では多かれ少なかれ農業労働者の雇用の不足が認められている一方で、同時に他方では男子労働の不足やその都市への移動のために作業隊制度が「必要」だと言われるわけは、これまでの説明によって理解されるであろう。リンカンシャーなどの、雑草のない畑と人間雑草とは、資本主義的生産の極と対極なのである。(ディーツ版23巻724-725頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 人間雑草、という表現がよくわかりません。

 雑草、ということばはほかでも出てきます。

スコットランドの偉人たちは雑草を根こそぎ抜くかのように家族を収奪し、インディアンが復讐で野獣の巣窟を扱うのと同じように村とその住民を扱った(・・・)」(ディーツ版23巻758頁・註。ジョージ・エンサーの著書からの引用。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 この用いられ方を踏まえると、「まるで雑草であるかのように扱われる人間たち」あるいは「まるで雑草であるかのように雑に扱われる人間たち」ということのようです。