うとうととして

古典を少しずつ読みます。

委員会報告書は、素朴に次のように言っている(ディーツ版23巻262-263頁)

委員会報告書は、素朴に次のように言っている。時間、すなわち他人の労働を取得する時間を失い、またそれによって「利潤を失う」といういくつかの「有力会社」の心配は、13歳未満の子供や18歳未満の少年に12〜16時間にわたって昼食を「とらせないでおく」ための、または、蒸気機関に石炭や水をやったり、羊毛に石鹸をつけたり、車輪に油をつけたりするように、生産過程そのもののあいだに単なる労働手段の補助材料として---彼らに昼食をあてがうための、「十分な理由」ではないのである〔と〕。(ディーツ版23巻262-263頁、岡崎次郎訳。太字強調、亀甲括弧〔  〕内はブログ主。)

 

[註] 18歳未満の少年:junge Personen unter 18 Jahren〔18歳未満の若者、若年者〕

 

「労働日」の考察などでおりに触れて示したように、労働者はしばしば自分の個人的消費を生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。このような場合には、彼は自分の労働力を働かせておくために自分に生活手段をあてがうのであって、ちょうど、蒸気機関に石炭と水があてがわれ、車輪に油があてがわれるようなものである。そのとき彼の消費手段はただ生産手段の消費手段でしかなく、彼の個人的消費は直接に生活的消費である。とはいえ、これは資本主義的生産過程にとって本質的ではない一つの乱用として現われる。(ディーツ版23巻597頁、岡崎次郎訳。)(太字強調はブログ主による)

 

 車輪に油を塗ると滑ってしまいそうです。217頁の記載からは、車軸(車輪の軸)に油を塗る、ということのようです。

 

 機関を熱するために用いられる石炭は、あとかたもなく消えてしまうが、車軸に塗られる油なども同様である。染料やその他の補助材料も消えてなくなるが、しかしそれらは生産物の性質のうちに現われる。原料は生産物の実体になるが、しかしその形を変えている。 だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいってきたときの独立の姿をなくしてしまうわけである。(・・・)(ディーツ版23巻217頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

[2024年2月26日付記] 196頁にもあり。

 

原料はある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成にくわわることもありうる。補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。 主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として現れるものはなにもないからである。(ディーツ版23巻196頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)