うとうととして

古典を少しずつ読みます。

この、単純な流通または商品交換の部面から(『資本論 第1巻』ディーツ版190-191頁)

この、単純な流通または商品交換の部面から(『資本論 第1巻』ディーツ版190-191頁)

 

この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、資本と賃労働との社会についての彼の判断基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように(『資本論 第1巻』ディーツ版190-191頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

とはいえ、社会のなかでの分業と一つの作業場のなかでの分業とのあいだには多くの類似や関連があるにもかかわらず、この二つのものは、ただ程度が違うだけではなく、本質的に違っている。類似が最も適切に争う余地のないものにみえるのは、一つの内的な紐帯によっていろいろな業種がつなぎ合わされている場合である。たとえば、飼畜業者は皮を生産し、製革業者は皮を革に変え、製靴業者は革を長靴に変える。この場合には各業者はそれぞれ一つの段階生産物を生産するのであって、最後のできあがった姿は、彼らのいろいろな特殊労働の結合生産物である。〔後略〕(『資本論 第1巻』ディーツ版375頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 皮と革は、どちらも「かわ」と読むとすると、耳で聞いたときに区別ができません。

音読みとすると、たとえばディーツ版190-191頁の太字強調した箇所は

「まるで自分のひを売ってしまってもはやかくになめされるよりほかにはなんの望みもない人のように

となりますが、すんなり入ってきません。日、火と、同じ読みのことばがあるためと思われます。

 

生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段に​ではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係だった。たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱う。彼が皮をなめすのは資本家のためにするのではない。〔後略〕(『資本論 第1巻』ディーツ版328-329頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 皮を表わすことばは資本論ではFell/Felle、Haut/Häuteの二つがあります。190-191頁ではHaut/Häute、328-329頁ではFell/Felle、375頁ではHaut/Häuteです。指示内容はほぼ同じようです。328-329頁では、獣皮、皮のどちらもFell/Felleです。

 

 獣皮は耳で聞いて区別しやすいのですが、人間の皮を指す場合は獣皮と言い換えるわけにはいきません。

 日本語での呼び方について

 鞣されていないものを「皮」(かわ)といい、鞣しが行われたものを「革」(かく)という。毛皮のように鞣しが行われていても、「皮」を使う場合もある。(日本皮革技術協会(姫路市)のウェブサイトから)

とあり。ディーツ版190-191頁の太字強調した箇所はこの呼び方に従うと

「まるで自分のかわを売ってしまってもはやかくになめされるよりほかにはなんの望みもない人のように

と読むことになります。