われわれの友は、今まであれほど資本らしく高慢だったのに(『資本論 第1巻』ディーツ版207頁)
〔前略〕われわれの友は、今まであれほど資本らしく高慢だったのに、にわかに自分自身の労働者だというつつましい態度をとる。自分だって労働したではないか? 紡績工の監視という労働を、総監督という労働をしたではないか? 自分のこの労働もやはり価値を形成するのではないか? 〔後略〕(『資本論 第1巻』ディーツ版207頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)
太字強調した箇所は意味がとりにくい。原文は
Unser Freund, eben noch so kapitalübermütig, nimmt plötzlich die anspruchslose Haltung seines eignen Arbeiters an.
ここで、岡崎次郎先生はeignenをeigenenと読み替えて訳しています。鍵になる動詞がannehmenです。(annehmenは分離動詞です。)
die anspruchslose Haltung annehmen(つつましい態度をとる)
つつましい態度をとる主体が、われわれの友=資本家と、もう一つ、労働者があります。文にしてみると次のようになります。
Unser Freund nimmt die anspruchslose Haltung an.(われわれの友はつつましい態度をとる。)
Sein eigener Arbeiter nimmt die anspruchslose Haltung an.(彼自身の労働者はつつましい態度をとる。)
これらの二つの文をまとめて、「われわれの友は、にわかに自分自身の労働者がとるのと同様のつつましい態度をとる。」または「われわれの友は、にわかに自分自身の労働者がとるつつましい態度をとる。」という訳が成立するのではないか、と思います。