うとうととして

古典を少しずつ読みます。

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから(『資本論 第1巻』ディーツ版179-180頁)

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから(『資本論 第1巻』ディーツ版179-180頁)

 

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるだろうか? 流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいるということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴をつくることによってである。同じ素材が今ではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値を持っているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。(『資本論 第1巻』ディーツ版179-180頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 太字強調した箇所は、意味がとりにくい。原文を確認しても、岡崎次郎訳のように訳されうる文でした。ただ、資本論翻訳委員会訳のほうが理解しやすい。「それは、10であると同時に11である価格に、すなわち、それ自身よりも大きい価値に、表わされはしない。」(資本論翻訳委員会訳) 

 太字強調した箇所の後には、次の節にある文言を補いたい。「等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われる。」(『資本論 第1巻』ディーツ版181頁、岡崎次郎訳)

 

[2023.8.5.付記] 

〔前略〕とにかく、リカード学派は〕重商主義者に比べれば、一つの進歩だった。というのは、重商主義者のほうは、生産物の価格のうち生産費を越える超過分を交換から、すなわち生産物をその価値よりも高く売ることから、導き出しているからである。〔後略〕(『資本論 第1巻』ディーツ版539頁。岡崎次郎訳。亀甲括弧〔 〕内、太字強調はブログ主。)

 重商主義の学説に対して批判しようとしてディーツ版179-180頁あたりの議論をしているようです。