うとうととして

古典を少しずつ読みます。

それは衣服商人のものである(『資本論 第1巻』ディーツ版164頁)

それは衣服商人のものである(『資本論 第1巻』ディーツ版164頁)

 

(・・・)1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この 3 ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。私はもはやその3ポンドとは何の関係もない。それは衣服商人のものである。(・・・)(『資本論 第1巻』ディーツ版164頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 衣服商人はもとの文ではKleiderhändler。第4章では、まだ、話が単純化されていて、商人は出てこないつもりでした。が、ここでは商人ということばが使われています。176頁で「売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、どちらかである」(岡崎次郎訳)とあります。すると、商人ということばが使われてはいるけれども、衣服職人が自分で売りに来たか、衣服職人たちの代表が売りに来たか、という状況を想定したらよいようです。つまり、ここでは、衣服商人は衣服の売り手、と言い換えてよさそうです。

 「決定的に支出されている」は、W-G-Wの過程が完了した、ということを指すととります。つまり、衣服は自分または自分たちが着るために買ったのであって、さらに別の人に売ろうとして買ったのではない。