うとうととして

古典を少しずつ読みます。

もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう(ディーツ版166頁)

 『資本論』第1巻第4章で、「貨幣として支出する」の意味がわかりにくい箇所があります。ディーツ版166頁です。紙屋研究所さんの 「二つの『資本論』の訳本を読んでときどき感じる当惑について」(2022.2.12.)で取り上げられています。この箇所は特に難しく、悩まされました。あれこれ考えて自分なりに納得しました。僕の解釈はコメント欄のchiteijinさんの説と8割方同じです。chiteijinさんの説で重要なのは「貨幣として支出される=W-G-Wにおける貨幣として支出される」ととる、という点です。ただし、chiteijinnさんの説でも一点、下に記すようにモヤモヤが残ります。

 買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものがそうであるように、限度と目標とを、過程の外にある究極目的としての消費に、すなわち特定の諸欲望の充足に、見いだす。これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、そしてすでにこのことによってもこの運動は無限である。たしかに、GはG+ΔGになり、100ポンド・スターリングは100ポンド・プラス・10ポンドにはなっている。しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに、一つの限定された価値額である。もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう。それは資本でなくなるであろう。流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して、世界の最後の日までしまっておいてもびた一文もふえはしない。つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合と同じことである。したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命をもっているからである。(大月版・岡崎次郎訳、ディーツ版166頁)

 

 太字にした箇所は意味がとりにくい。紙屋研究所さんの言われる通りです。(僕は10回以上読み返しました。)

 

まず

 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とはさしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

 商品流通の直接的形態は、W-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのである。(大月版・岡崎次郎訳、ディーツ版161頁)

を振り返りましょう。

 

 マルクスの叙述を言い換え、また補ってみます。場合分けを強調したいので場合ということばをいちいち使っています。

[1] 110ポンドが貨幣として支出される場合、すなわちW-G-Wにおける貨幣として支出される場合、110ポンドはその役割からはずれてしまうであろう。それは資本でなくなるであろう。 [2] 110ポンドが流通から引きあげられた場合、すなわち、次のG-W-Gに投げ込まれないままの場合、それは蓄蔵貨幣に化石する。[2の1] それ(いったん蓄蔵貨幣となった110ポンド)がある時間をおいて次のG-W-Gに投げ込まれた場合、それは再度資本となる。[2の2] それ(いったん蓄蔵貨幣となった110ポンド)が世界の最後の日までしまっておかれた場合、びた一文もふえはしない。(下線部は補った箇所。)

 

 [1] [2]と場合分けされているととるのはコメント欄のchiteijinさんの説と同じです。[2]をさらに場合分けする点は、chiteijinさんの説と異なります。貨幣がいったん蓄蔵貨幣となることはふだんからありうること(下の引用参照)で、そのことと貨幣所持者が貨幣蓄蔵者となる(貨幣を致富形態として手元においておく)のとはちがうはずです。ここがモヤモヤしていました。 [2] の110ポンドが流通から引きあげられた場合は、実はさらに二つの場合に分かれて[2の1]と[2の2]となっているのだけれども、[2の1]は明示されていない---と考えるとモヤモヤが解決してすんなり受け入れられます。

 

 支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要とする。独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなるが、反対に、支払い手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。資本論第1巻第3章第3節、ディーツ版156頁)

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 紙屋研究所さんの記事へのコメント中でchiteijinさんの引用した箇所のフランス語文法について。

「フランス語版資本論」(江夏美千穂、上杉聰彦訳)「もし一〇〇ポンド・スターリングが貨幣として支出されれば、それは直ちに役割を変え、資本として機能しなくなる。もし流通から取り除かれれば、それは蓄蔵貨幣形態のもとで石化し、一文たりとも増加せず、最後の審判までそこに眠っているであろう。」では接続詞quandを接続詞etのように訳している。

(元の文。ただし接続詞を太字強調している。)Si les 100 livres sterling sont dépensées comme argent, elles changent aussitôt de rôle et cessent de fonctionner comme capital. Si elles sont dérobées à la circulation, elles se pétrifient sous forme trésor et ne grossiront pas d’un liard quand elles dormiraient là jusqu’au jugement dernier. 

ここは、動詞dormiraient(<dormir眠る)が条件法の形なので、qaundは「たとえ・・・でも」の意となる[1]。

そのように変更すると

⇒もし流通から取り除かれれば、それは蓄蔵貨幣形態のもとで石化し、たとえ最後の審判までそこに眠っていても一文たりとも増加しない。

となる。

[註1]「⸨譲歩⸩ 〈quand+条件法∥quand (bien) même+条件法〉たとえ…でも(=même si)」(プログレッシブ 仏和辞典 第2版)

 

 

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ドイツ語文法について。

(元の文)Würden die 110 Pfd.St. als Geld verausgabt, so fielen sie aus ihrer Rolle. Sie hörten auf, Kapital zu sein. Der Zirkulation entzogen, versteinern sie zum Schatz, und kein Farthing wächst ihnen an, ob sie bis zum Jüngsten Tage fortlagern.

⇒(wennほかを補う。下線部が補った箇所。)

Wenn die 110 Pfd.St. würden als Geld verausgabt, so fielen sie aus ihrer Rolle. Sie hörten auf, Kapital zu sein. Wenn sie werden der Zirkulation entzogen, versteinern sie zum Schatz, und kein Farthing wächst ihnen an, ob sie bis zum Jüngsten Tage fortlagern.  

 第一の文ではwennが省略されている[1]。

 第三の文は分詞構文で条件を表わす[2]。

[註1] 条件文は、接続詞を使わずに定形を文頭におくことによっても作ることができます。この場合、条件文は必ず主文に先立ちます。(鷲巣由美子『これならわかるドイツ語文法』NHK出版、2016年、237頁。)

 

[註2] 目的語や添加語をともなった分詞句が独立して副文と同じような働きをすることがあります。そのような分詞句を分詞構文といいます。分詞構文は主語がなく、また分詞には時制や人称変化もないため、副文よりも簡潔になります。書き言葉の表現手段であり、話し言葉では慣用句を別として用いられません。(鷲巣由美子『これならわかるドイツ語文法』NHK出版、2016年、304頁。)

⇒(接続詞を太字強調してみる。)

Wenn die 110 Pfd.St. würden als Geld verausgabt, so fielen sie aus ihrer Rolle. Sie hörten auf, Kapital zu sein. Wenn sie werden der Zirkulation entzogen, versteinern sie zum Schatz, und kein Farthing wächst ihnen an, ob sie bis zum Jüngsten Tage fortlagern.

ここではobは「たとえ・・・であっても」の意味だろう[3]。

[註3] obの語義に「《auch, gleich, schon, zwarなどを副文中に伴って》[古い語義] たとえ・・・であっても」とあり。(『新アルファ独和辞典』、三修社、1998年)

⇒(動詞・助動詞を太字強調してみる。)

Wenn die 110 Pfd.St. würden als Geld verausgabt, so fielen sie aus ihrer Rolle. Sie hörten auf, Kapital zu sein. Wenn sie werden der Zirkulation entzogen, versteinern sie zum Schatz, und kein Farthing wächst ihnen an, ob sie bis zum Jüngsten Tage fortlagern.

ここでwürden verausgabt(<werden verausgabt)、fielen(<fallen)、auf+hörten(<aufhören)は接続法第二式である。またwerden entzogen、versteinern、an+wächst(anwachsen)、fortlagernは直接法現在である。

 

[2023.3.5.追記] obの語義で、「たとえ・・・であっても」ととった。このとりかたを支持するのは、仏訳と英訳である。支持しないのは、「たとえ・・・であっても」を表現するのに、資本論のほかの箇所では"wenn auch"、"auch wenn"、"selbst wenn"を使っている

ことである。

 

[2023.8.5.追記] (・・・)kein Farthing wächst ihnen an(・・・)でan+wächst(anwachsen)は手元の辞書では自動詞と記されている。しかしながら、ここでは、他動詞であって、付け加える、という意味になっている。文の意味は「それ(110ポンド)に1ファージングさえ付け加えはしない」となる。