うとうととして

古典を少しずつ読みます。

ロッシの説にマルクスは賛成なのか反対なのか

資本論』第1巻第4章で、ロッシの説にマルクスは賛成なのか反対なのかわかりにくい箇所があります。ディーツ版187頁です。紙屋研究所さんの 「『資本論』にでてくるabstraction」(2021.12.24.)、「『資本論』にでてくるabstraction(続き)」(2021.12.26.)で取り上げられています。

ロッシ説「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力(puissance de travail)を把握することは、一つの妄想(être de raison)を把握することである。」(岡崎次郎訳)

マルクス説「労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。」(岡崎次郎訳)

 ロッシもマルクスも労働者の生活手段は労働力を考察するときには本質的と考えている点では一致している。なのになぜマルクスはロッシ説に対して「非常に安っぽい感傷である」と言っているのか。

 結論から述べます。ロッシ、マルクスの説を言い換えて、また言葉を補って

ロッシ説「労働能力を把握するためには、労働者が生産過程にあるあいだも生産過程の外にあるときも労働者の生活手段を度外視してはいけない。」

マルクス説「たしかに労働能力を把握するためには、労働者の生活手段を度外視してはいけない。ただ、労働能力を考察する人が労働者の生活手段を考察しなければならないのは、労働者が生産過程にあるあいだなのか生産過程の外にあるときなのかというと、生産過程の外にあるときである。」

---と解するとよさそうです。

 紙屋研究所さんは「生産過程にあるあいだは」を取り除いて考察しています。しかしながら、「晴れた日には畑を耕し、雨の日には書物を読む」のような場合分けがここにありそうです。

 

 以下は註釈です。

 ロッシはどんな人物か。ウィキペディアの項目「ペッレグリーノ・ロッシ」からブリタニカ百科事典(1911年版)に飛べて、これによれば、波乱のある人生を送っています。1787年イタリアで生まれた経済学者・政治家で、学者としてはコレージュ・ド・フランスの教授を務めました。その後、駐ローマのフランス大使となり、最後はローマ教皇ピウス9世のもとで内務大臣となりましたが1848年に暗殺されました。マルクスの著書では『資本論』の他、『哲学の貧困』『剰余価値学説史』にも登場します。

 

ごらんのように、たしかにリカードの言い方はこの上なく皮肉である。帽子の製作費と人間の生活維持費とを同列に取り扱うのは、人間を帽子に変えてしまうことだ。だが、この皮肉について、そう騒ぎ立てないようにしよう。皮肉は事実のなかにあるのであって、事実を表現することばのなかにあるのではない。ドロー、ブランキ、ロッシその他の諸氏のようなフランスの著述家たちは、「人道的な」言い方をするという儀礼を守るように努めることによって、イギリスの経済学者たちよりも自分たちのほうがすぐれていることの証しがたてられると思い込み、子供っぽい自己満足にふけっている。彼らがリカードとその学派の人々にたいして、その皮肉な言い方を非難するのは、経済な諸関係が赤裸々な姿でさらけだされ、ブルジョアジーの秘密が暴露されるのを見て、胸の中がむしゃくしゃしているからなのだ。」(マルクス『哲学の貧困』全集第4巻、平田清明訳)

 捨象ということばについては、教育学、特に算数・数学教育の分野ではよく使われるようです。(Google Scholorで「数学 捨象」で検索してみてください。)ロッシとマルクスの文章の訳としては「捨象する」のままが最善と僕は思いますが「度外視する」とか「脇に置く」でも通ると思います。

 フランス語のレゾンデートルでなくてエートルドレゾンは、哲学者スピノザでは、本質的なもの(エッセンス)のような意味合いで使われるようです。(こちらは全くの聞きかじりでネットの「Spinoza et Nous」というウェブサイトで仕入れた知識です。)ロッシの著書ででの使われ方では「空想の産物」と言い換えるとぴったり来ます。