うとうととして

古典を少しずつ読みます。

もし労働者が自分の処理しうる時間を自分自身のために消費するならば(ディーツ版247頁)

資本家は労働力をその日価値で買った。 一労働日のあいだの労働力の使用価値は彼のものである。つまり、彼は、労働者を一日のあいだ自分のために働かせる権利を得たのである。 だが、一労働日とはなにか? とにかく、自然の一生活日よりは短い。 どれだけ短いのか?  資本家は、この極限、労働日の必然的限界については独特な見解をもっている。 資本家としては彼はただ人格化された資本でしかない。 彼の魂は資本の魂である。 ところが、資本にはただ一つの生活衝動〔生命本能〕があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多くの剰余労働を吸い込むという、ただ一つの生活衝動〔生命本能〕があるだけである。資本はすでに死んだ労働であって、この労働は吸血鬼のようにただ生きている労働の吸収によってのみ活気づき、そしてそれを吸収すれば吸収するほど、ますます活気づくのである。労働者が労働する時間は、資本家が自分の買った労働力を消費する時間である。もし労働者が自分の処理しうる時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。

(ディーツ版247頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 太字強調した箇所は、矛盾しているように聞こえます。これでは、「自分の処理しうる時間」とは言えないでしょう。また、これでは、24時間の中に、自由時間は1分もなくなってしまいます。約束が違うでしょう。第4章第3節 労働力の売買 では、次のように確認したはずでした。

労働力の所持者と貨幣の所持者は市場で出会い、対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、唯一の違いは、一方が買い手で他方が売り手であるということだけであって、両方とも法律上では平等な人〔Person、人格〕である。この関係の持続は、労働力の所有者が常に一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所有者から商品になってしまうからである。彼が人〔Person、人格〕として、彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなくてはならない。そして、そうでありうるには、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである。

(ディーツ版182頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。亀甲括弧〔 〕内は、補った。)

 もやもやしながら読み進むと、実は、「もし労働者が自分の処理しうる時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。」は、一般に真実と認められていること、とか、マルクスがそう考えている、ということではなく、資本の論理であった、ということがわかります。

こういうわけで、資本家は商品交換の法則をたてにとる。 彼は、ほかのどの買い手とも同じに、彼の商品の使用価値からできるだけ大きな効用を引き出そうとする。しかし、突然、労働者の声が聞こえてくる。それは生産過程の疾風怒濤のなかではかき消されていたのであるが。〔中略。労働者の声の部分を飛ばす。〕

(ディーツ版247-248頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。))

要するに、まったく弾力性のあるいろいろな制限は別として、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、出てこないのである。資本家が、労働日をできるだけ延長してできれば一労働日を二労働日にでもしようとするとき、彼は買い手としての自分の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独自な性質は、買い手によるそれの消費にたいする制限が含まれているのであって、労働者が、労働日を一定の正常な長さ〔Normalgröße標準的な長さ〕に制限しようとするとき、彼は売り手としての自分の権利を主張するのである。だから、ここでは一つの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等な権利と権利のあいだでは力がことを決する。こういうわけで、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争---総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争---として現れるのである。

(ディーツ版249頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。亀甲括弧〔 〕内は、補った。)

 

 「一労働日とはなにか?」という問いは、資本の論理がごりごりと押し通されて労働者の健康を損ねた事例を数々紹介した後、第8章第5節 で、資本の論理からの答えが示されます。

「一労働日とはなにか?」 資本によって日価値を支払われる労働力を資本が消費してよい時間はどれだけか? 労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間を超えて、どれだけ延長されうるか? これらの問いに対して、すでに見たように、資本は次のように答える。労働日は、まる24時間から、労働力がその役立ちを繰り返すために絶対に欠くことのできないわずかばかりの休息時間を引いたものである。まず第一に、労働者は彼の一生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜日の安息時間でさえも---そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと---ただふざけたことでしかない!

(ディーツ版279-280頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。))

(この記述では、ここでは資本の論理を述べている、ということがはっきり示されています。)

 この記述からすると、第4章第3節での「一定の時間」「一定の期間」というのは、例えば、「2021年4月1日から2022年3月31日までの間の、月曜日から金曜日までは9時から17時、土曜日は9時から12時が勤務時間、日曜ほか休日は休み」ということではない。「2021年4月1日から2022年3月31日までの間」だけがかちっと決まっていることであって、「勤務時間は流動的。長さとしても、時間帯としても流動的である。日中かもしれないし夜間・早朝かもしれない。日曜日も勤務することがありうる」というのが、資本の論理だ、ということになります。 

われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないであろう。市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品の所持者に相対していた。つまり、商品所持者にたいする商品所持者としてである。彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、彼が自由に自分自身を処分できることをいわば白紙の上に墨くろぐろと証明した。取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自由に自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間だということであり、じっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは」手放さないということである。彼らを悩ませた蛇に対する「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章〔マグナカルタ〕が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする」のである。なんと変わり果てたことだろう!

(ディーツ版319-320頁、岡崎次郎太字強調はブログ主。太字強調はブログ主。)

  話の流れはわかりました。

[2024年2月26日付記] ディーツ版23巻319-320頁のことばには、心動かされます。