うとうととして

古典を少しずつ読みます。

使用価値は物としてのわれわれにそなわっているものではない。(ディーツ版97頁)

ボタンまでかけた上着の現身(うつしみ)にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同族の美しい価値魂を見たのである。」(ディーツ版66頁、岡崎次郎訳。)

 66頁から、97頁、100頁と、少しずつ間をおいて、似たような内容が出てきます。

だが、先まわりすることをやめて、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例だけで十分だとしよう。もし商品がものが言えるとすれば、商品はこう言うであろう。われわれの使用価値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物としての〔als Dingen〕われわれにそなわっているものではない。だが、物としての〔dinglich物的に〕われわれにそなわっているのはわれわれの価値である。われわれ自身の商品物としての〔als Warendinge〕交わり〔Verkehr付き合い、交通〕がそのことを証明している。われわれはただ交換価値として互いに関係しあうだけだ。

(ディーツ版97頁、岡崎次郎訳、亀甲括弧〔 〕内は補った。)

 

商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとっては、ほかのどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけだという事情である。生まれながらの平等派であり、犬儒派である商品は、他のどの商品とでも、たとえそれがマリトルネスよりもっと見苦しいものであろうと、心だけでなくからだまで取り交わそうといつでも用意しているのである。このような、商品に欠けている、商品体の具体的なもの〔属性〕に対する感覚を、商品所持者が自分の五つ以上もの感覚で補うのである。〔後略〕

(ディーツ版100頁、岡崎次郎訳、亀甲括弧〔 〕内は補った。)

 マリトルネスは、『ドン・キホーテ』に出てくる女性だそうで、ここでは不細工な女性の代名詞のように使われています。いまどきのセンスではこのような物言いをしたらつまみ出されそうです。

 平等派(Levellers)は水平派とも訳され「17世紀イギリスのピューリタン革命における急進派。中層以下の市民・農民が中心で、リルバーンが指導。1647年、人民協約を提案したが、クロムウェルに弾圧され崩壊」(1)したそうです。

 犬儒学派は、キニク学派とも言われ「アンティステネスを祖とする古代ギリシア哲学の一派。シノペのディオゲネスに代表されるような、単純で簡素な生活を理想とした」(2)そうです。

 66頁からは、見かけに惑わされず、ということかと思っていたら、97頁では、使用価値はなくなるはずがないのにまったく意識されておらず、あるいは目に入らず、100頁ではそのことを「具体的なものに対する感覚」が欠けている、と言っています。

 

 

[文献]

文献1)『講談社カラー版日本語大辞典』レベラーズの項。

文献2)『講談社カラー版日本語大辞典』キニク学派の項。