上着の生産では、実際に、裁縫という形態で、人間の労働力が支出された。だから、上着のなかには人間労働が積もっている。この面から見れば、上着は「価値の担い手」である。といっても、このような上着の属性そのものは、上着のどんなにすり切れたところからも透いて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから、したがってただ具体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、認められるのである。 ボタンまでかけた上着の現身(うつしみ)にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同族の美しい価値魂を見たのである。とはいえ、リンネルに対して上着が価値を表わすということは、同時に、リンネルにとって価値が上着という形態をとることなしにはできないことである。 〔後略〕
(岡崎次郎訳)
魂、ということばが、つかみかねて困りました。
もとのことばはSeeleです。Körper(身体)と対をなします。
Seele、Körperをキーワードに検索し小林裕明(2008)(文献1)がみつかりました。注11で、ヘーゲル『エンチュクロペディー』「論理学」の予備概念34節補遺に次のようにある、と紹介してくれました。
精神は魂とは別ものであって、後者は肉体性と精神のあいだのいわば中間者、あるいは、両者のあいだの絆(きずな)である。魂としての精神は肉体性のうちへ沈められており、そして魂は身体(からだ)に命(いのち)をあたえるものである。
(真下信一・宮本十蔵訳。)(小林(文献1)では、独自に訳出されています。)
魂、ということばの表すことに接近しえたような気がします。
小林(文献1)4ページ目で、「小論理学」216節を紹介しています。
概念は心として体において実在化されており、〔以下略〕
(真下・宮本訳。)(心のもとのことばはSeele。小林(文献1)では魂と訳しています。体のもとのことばはここではLeib。)
このように、日本語の体にあたるドイツ語にLeibもあり、Körperとの区別は未確認ですが、小林(文献1)注12では、置き換え可能なことばとして扱っており、少なくとも重なるところが大きいようです。
リンネルと上着とで、見かけは全然ちがうのに、仲間の魂を見いだす、ということか、というふうに受け取っていたら、「ボタンまでかけた」は「よそよそしい」という意味を持つそうです(文献3)。望月清司先生が、戯訳、として次のように訳しておられます。
「ボタンをしっかりかけて、上着は一見素っ気ない態度を見せているけれど、リンネル女は、そんな上べにはだまされず、彼の中に、仲間同士だから解る(stammverwandte)結構な価値魂を見抜いたのである。」(望月清司訳)(文献4)
[付記] 「価値魂」という日本語訳は、望月清司先生の訳でもそのまま採用されています。
[文献〕
1)小林裕明(2008)、ヘーゲル哲学体系における物体論 : プラトンとアリストテレスの統一としてのヘーゲル、現代社会文化研究〔新潟大学大学院現代社会文化研究科〕 41:131-148。
2)真下信一・宮本十蔵訳(1996)『改訳 小論理学』(ヘーゲル全集第1巻)、岩波書店。
4)望月清司(2018)、価値形態論の上着は30万円、専修大学社会科学研究所月報 664:1-22。
[付記] 「価値魂」という、二つのことばをくっつけたことばは、日本語では座りが悪く感じます。「〔交換〕価値という魂」と、「という」をつけると、座りが良いです。しかし、仮に上記の文中で置き換えて「同族の美しい価値という魂を見たのである。」とすると、日本語では、「同族の」や「美しい」が、魂でなく価値にかかってしまい、まずいです。なので「同族の美しい魂、価値という魂を見たのである。」とすると、「同族の」や「美しい」が魂にかかります。