「労働日」の考察などでおりに触れて示したように、労働者はしばしば自分の個人的消費を生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。このような場合には、彼は自分の労働力を働かせておくために自分に生活手段をあてがうのであって、ちょうど、蒸気機関に石炭と水があてがわれ、車輪に油があてがわれるようなものである。そのとき彼の消費手段はただ生産手段の消費手段でしかなく、彼の個人的消費は直接に生活的消費である。とはいえ、これは資本主義的生産過程にとって本質的ではない一つの乱用として現われる。
生活的消費ということばが突然出てくる。かつ、その後出てこない。うまく文章が流れない。原文を確認すると、生活的消費は、原文ではproduktive Konsumtionです。そうすると、生活的消費は生産的消費の誤植でしょう。