うとうととして

古典を少しずつ読みます。

さきに考察した経済的諸範疇もまた、それらの歴史的な痕跡を帯びている(ディーツ版183頁)

さきに考察した経済的諸範疇もまた、それらの歴史的な痕跡を帯びている。生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包み込まれている。商品になるためには、その生産物は、生産者自身の直接的生活手段として生産されてはならない。われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どのような事情のもとで起きるのかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。とはいえ、このような探究は商品の分析には遠いものだった。商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行われうるのである。生産物が商品として現われることは、社会内の分業がかなり発達して、最初は直接的物々交換に始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。岡崎次郎訳。強調はブログ主による。)

 

 自己需要は、原文ではSelbstbedarfです。資本論第2巻203頁、207頁・岡崎次郎訳では自家需要と訳されています。

 

およそ直接的自家需要に向けられていない生産ではどの生産でも生産物は商品として流通しなければならない。すなわち売られなければならない。それによって利潤をあげるためにではなく、とにかくそれによって生産者が暮らして行けるようにするためである。資本主義的生産の場合にこれに加わるのは、商品が売れれば商品に含まれている剰余価値も実現されるということである。生産物は商品として生産過程から出てくるのであり、したがって生産過程の固定要素でもなければ流動要素でもないのである。岡崎次郎訳。強調はブログ主による。)

 

 Google Scholarで「自家需要」「自己需要」のどちらをキーワードにして検索してもヒットするので、どちらの訳も「あり」ということのようです。