うとうととして

古典を少しずつ読みます。

そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう(ディーツ版23巻52頁ほか)

 資本論第1巻第1章に凝固、凝固物ということばが出てきます。凝固物ということばはもののたとえです。マルクスは不静止/運動を流動状態、存在/対象性を凝固・凝固物・凝固状態または結晶とたとえています。凝固、凝固物・凝固状態というたとえはブログ主にはピンときません。何にたとえるか、ということには、こだわらなくてよいのではないかと考えています。ブログ主がたとえたならば、マルクスが「凝固物」「結晶」にたとえたものは「結晶」にたとえてそれで通すと思います。

 

そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。 それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。 これらのものが表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値---商品価値である。(ディーツ版23巻52頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 

こういうわけで、価値としての上着やリンネルではそれらの使用価値の相違が捨象されているように、これらの価値に表わされている労働でもそれらの有用形態の相違、裁縫や織布との相違は捨象されているのである。使用価値としての上着やリンネルが、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物であり、これに反して価値として上着とリンネルは単なる同質の労働凝固であるが、これらの価値に含まれている労働も、布や糸に対するその生産的作用によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。裁縫や織布が使用価値としての上着やリンネルの形成要素であるのは、まさに裁縫や織布の 互いに違った質によるものである。裁縫や織布が上着価値やリンネル価値の実体であるのは、ただ、裁縫や織布の特殊な質が捨象されて両者が同じ質を、人間労働という質をもっているかぎりでのことである。(ディーツ版23巻59-60頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、と言うならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが、しかし、商品にその現物形態とは違った価値形態を与えはしない。一商品の他の一商品にたいする価値関係のなかではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品にたいするそれ自身の関係によって現われてくるのである。 (ディーツ版 23巻65頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。リンネル価値を人間の労働の凝固として表現するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っている同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。課題はすでに解決されている。 (ディーツ版 23巻65-66頁。太字強調はブログ主。)

 

等価物として役立つ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。つまり、この具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服を作り、したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。このような価値鏡をつくるためには、裁縫そののものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。 (ディーツ版 23巻72頁。太字強調はブログ主。)

 

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネルの価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。(ディーツ版 23巻77頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

諸労働の生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす一般的価値形態は、それ自身の構造によってそれが商品世界の社会的表現であることを、示している。こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは、労働の一般的な人間的性格が、労働の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである。(ディーツ版 23巻81頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 第5章に飛びます。

 

要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。(ディーツ版23巻195頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

労働過程では、労働は絶えず不静止の形態から存在の形態に、運動の形態から対象性の形態に転換される。1時間後には、紡績運動がいくらかの量の糸に表わされている。つまり、一定量の労働、すなわち1労働時間が綿花に対象化されている。われわれは労働時間、すなわち紡績工の生命力の1時間の支出と言うが、それは、ここで紡績労働が労働として認められるのは、ただそれが労働力の支出であるかぎりでのことであって、それが紡績という独自な労働であるかぎりでのことではないからである。(ディーツ版23巻204頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)