うとうととして

古典を少しずつ読みます。

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから(ディーツ版23巻179-180頁)

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから(『資本論 第1巻』ディーツ版23巻179-180頁)

 

 2023年8月3日に取り上げた箇所です。

 

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるだろうか? 流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいるということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴をつくることによってである。同じ素材が今ではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値を持っているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。(ディーツ版23巻179-180頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 太字強調箇所で、マルクスは、自分は商品交換の法則=等価交換の法則を破らずに説明し切る、ということが言いたくて、不思議なことばで言っているようです。

 

 貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。(・・・)(ディーツ版23巻180頁、岡崎次郎訳。)

 

(・・・)労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる一日労働するということを妨げはしない。(・・・)労働力はまる一日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の一日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が一日につくりだす価値が労働力自身の日価値の二倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手にたいする不法ではないのである(ディーツ版23巻208頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 途中を飛ばして、

 

(・・・)手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。

 問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。(・・・)(ディーツ版23巻208-209頁、岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 

[参考文献]

不破哲三(2003年)、『資本論』全三部を読む第2冊 代々木『資本論』ゼミナール・講義集 · 第 2 巻、新日本出版社、79頁。(2022年1月に新版が出ています。)