うとうととして

古典を少しずつ読みます。

それは、しだいに、馬車生産をそのいろいろな特殊作業に分割するものになり(第12章 分業とマニュファクチュア、のあちこち)

 第12章 分業とマニュファクチュアの岡崎次郎訳には、専有ということばがしばしば出てきます。意味は、『資本論』では、「専門分化した」ということのようです。学術的な文献で裏付けたわけではありませんが。

 

それは、しだいに、馬車生産をそのいろいろな特殊作業に分割するものになり、これらの作業のそれぞれが一人の労働者の専有機能に結晶してそれらの全体がこれらの部分労働者の結合体によって行われるようになる。岡崎次郎訳、ディーツ版23巻356-357頁。)

 

 

しかし、ニュルンベルクの製針業者は、おそらく20種にのぼる一連の諸作業を一人で次々にやっていたのであるが、イギリスのマニュファクチュアでは、まもなく、20人の製針工が相並んでそれぞれが20種の作業のうちの一つだけを行ない、これらの作業は経験に従ってもっとずっと細分化され分立化されて、各個の労働者の専有機能として独立化されたのである。岡崎次郎訳、ディーツ版23巻358頁。)

 

 

他方では、マニュファクチュアは同種の手工業者たちの協業から出発し、同じ個人的手工業をそのいろいろな特殊作業に分解し、さらにこれらの特殊作業を分立化し独立化して、それぞれの作業が一人の特殊労働者の専有機能になるようにする。(岡崎次郎訳、ディーツ版23巻358頁。)

 

 

部分労働がある一人の人の専有機能として独立化されてからは、部分労働の方法も改良される。 (岡崎次郎訳、ディーツ版23巻359頁。)

 

 

ところが、一つの労働過程のいろいろな作業が互いに分離されて、それぞれの部分作業が部分労働者の手のなかでできるだけ適当な、したがって専有的な形態をとるようになれば、以前にはいろいろな目的に役だっていた道具の変化が必然的になる。岡崎次郎訳、ディーツ版23巻361頁。)

 

 

マニュファクチュア時代は、労働用具を部分労働者の専有〔的〕な特殊機能に適合させることによって、単純化し、改良し、多種類にする。 (岡崎次郎訳、ディーツ版23巻361頁。亀甲括弧〔 〕内はブログ主。)

 

 

このような作業でも、今ではもっと内容の豊富ないろいろな活動契機との流動的な関連から引き離されて、専有の機能として固定されるのである。 (岡崎次郎訳、ディーツ版23巻370頁。)

 

[参考] ausshließlichは副詞のはたらきをするときには「もっぱら・・・のみ」の意。

このように相変わらず手工業的な熟練が生産過程の基礎であるからこそ、どの労働者もそれぞれただ一つの部分機能に適合させられて、彼の労働力はこの部分機能の終生変わらない器官にされてしまうのである。 (岡崎次郎訳、ディーツ版23巻358-359頁。)

 

 

 名詞の形Ausschließungでは「排除」の意。

カストも同職組合も、動植物の種や亜種への分化を規制するのと同じ自然法則から発生するのであって、ただ、ある発展度に達すればカストの世襲性や同職組合の排他性が社会的法則として制定されるという点が違うだけである。(岡崎次郎訳、ディーツ版23巻360頁。)

 

 

今では全体労働者がすべての生産的属性を同じ程度の巧妙さでそなえており、それらを同時に最も経済的に支出することになる。というのは、全体労働者は、特殊な労働者または労働者群に個別化されている彼のすべての器官をただそれぞれの独自な機能だけに用いるからである。(岡崎次郎訳、ディーツ版23巻369頁。)

 

動詞の形ausschließenでは「排除する」の意。

資本主義的生産様式の社会では社会的分業の無政府とマニュファクチュア的分業の専制とが互いに条件になり合うとすれば、これに反して、それ以前の諸社会形態では諸産業の分化がまず自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法的に固定されたのであって、このような社会形態は、一方では社会的労働の計画的で権威的な組織の姿を示しながら、他方では作業場のなかでの分業をまったく排除するか、またはそれを矮小な規模でしか発展させないか、散在的偶然的にしか発展させないのである。 (岡崎次郎訳、ディーツ版23巻377-378頁。)

 

また、親方は自分がそこで親方だったその手工業だけでしか職人を使うことができなかった。(岡崎次郎訳、ディーツ版23巻380頁。)

 

近代的マニュファクチュア ---ここでは機械にもとづく大工業のことを言うのではない --- は、ある場合には、たとえば衣服マニュファクチュアのように、それが発生する大都市ですでにできあがっているばらばらの四肢を見つけだして、ただそれらが散らばっているのを集めさえすればよい。そうでなくても、ただ単に手工業的生産のいろいろな作業が (たとえば製本の場合のように)別々の労働者に専業として習得されるだけなので、分業の原理はすでにまったく明らかである。(岡崎次郎訳、ディーツ版23巻385頁。)

 

 

このように〔現代の経済学が〕量と交換価値とを強調するのとはまったく正反対に、古典的古代の著述家たちはただ質と使用価値だけにしがみついている。(岡崎次郎訳、ディーツ版23巻386頁。亀甲括弧〔 〕内はブログ主。)

 

ここではただ使用価値の所期の品質だけに着目している。もっとも、すでにクセノフォンは分業の程度が市場の広さによって定まるということを知っているのである。岡崎次郎訳、ディーツ版23巻388頁、註81。)