うとうととして

古典を少しずつ読みます。

商品は、自分で市場に行くことはできないし(『資本論 第1巻』ディーツ版23巻99頁。)

 

 商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換しあうこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。商品は物であり、したがって人間にたいしては無抵抗である。もし商品が従順でなければ、人間は暴力を用いることができる。言いかえれば、それをつかまえることができる[註37]。(・・・)

 

註37 敬虔で聞こえた12世紀にも、これらの商品のうちにはしばしば非常にかよわいものが現われる。たとえば当時のフランスの一詩人は、ランディの市場で見られた商品のうちに、服地や靴や革や農具や皮などのほかに「みだらな女たち」をも数えている。

(『資本論 第1巻』ディーツ版23巻99頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 『資本論 第1巻』ディーツ版23巻99頁。です。この記述で胸にトゲが刺さった方もいるかと思います、僕は刺さりました。

 ここでいうところの商品に人は入るのかと。無生物や動物に対して力づくでも、ということを「暴力を用いる」ということばで言っているのか。それとも人間が反抗することに対して抑えつけることについて「暴力を用いる」ということばで言っているのか、と。人間を入れているとしたら、さらっと言うだけでいいのか、と。

 第2巻に飛びます。

奴隷の売買も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が存在しなければ、貨幣もこの機能を行なうことはできない。奴隷制が存在すれば、貨幣を奴隷の買い入れに投ずることができる。逆に、貨幣が買い手の手にあるということだけでは、けっして奴隷制を可能にするには足りないのである。(『資本論 第2巻』ディーツ版24巻38頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 この箇所を読むと、第1巻の上に抜粋した第2章冒頭の箇所では、確かに商品の中に人間をも入れている。しかしながら一方で、奴隷制度はなんらかの暴力がないと維持できない、ということも言っている。---というふうに読めます。