うとうととして

古典を少しずつ読みます。

ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが(『資本論 第1巻』ディーツ版23巻595-596頁。)

ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純再生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。一方では生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ、資本のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方ではこの過程から絶えず労働者が、そこに入った時と同じ姿で------富の人的源泉ではあるがこの富を自分のために実現するあらゆる手段を失っている姿で------出てくる。彼がこの過程に入る前に彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程の中で絶えず他人の生産物に対象化されるのである。生産過程は同時に資本家が労働力を消費する過程でもあるのだから、労働者の生産物は、絶えず商品に転化するだけではなく、資本に、すなわち価値を創造する力を搾取する価値に、人身を買う生活手段に、生産者を使用する生産手段に、転化するのである。それだから、労働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産するのである、そして資本家も絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化する実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体の内に存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。(『資本論 第1巻』ディーツ版23巻595-596頁。岡崎次郎訳。太字強調はブログ主。)

 

 

人身を買う生活手段に」のところで、ん? と思いました。奇妙な表現です。この箇所をふくむ文の原文は次の通り。

 

(...) Da der Produktionsprozeß zugleich der Konsumtionsprozeß der Arbeitskraft durch den Kapitalisten, verwandelt sich das Produkt des Arbeiters nicht nur fortwährend in Ware, sondern in Kapital, Wert, der die wertschöpfende Kraft aussaugt, Lebensmittel, die Personen kaufen, Produktionsmittel, die den Produzenten anwenden. (...)

 

 ”(...) Lebensmittel, die Personen kaufen, (...)”のdie は、関係代名詞で、Lebensmittel(中性名詞)を受ける。複数1格ともとれるし、複数4格ともとれる。また、 Personen(女性名詞)は、複数1格ともとれるし、複数4格ともとれる。(LebensmittelもPersonenも無冠詞である。)

dieが複数1格、Personenが複数4格ととると、「人身を買う生活手段に」となる。

dieが複数4格、Personenが複数1格ととると、「人々が買う生活手段に」となる。

 

 文法的には両方成り立ちます。が、岡崎次郎訳の通り、とっておきます。「人身を買う生活手段に」に続く「生産者を使用する生産手段に」も、奇妙な表現です。前者では、人々が生活手段を買うのがふつうなのが、ひっくりかえっています。また、後者では、生産者が生活手段を使用するのがふつうなのが、ひっくりかえっています。ひっくりかえして劇的な効果をねらった、ということのようです。