うとうととして

古典を少しずつ読みます。

この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。(ディーツ版23巻49頁。)

 資本論第1章第1節で、次の記述があります。

商品は、まず第一に外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。(・・・)(ディーツ版23巻49頁。)

[註] 空想:Phantasie。

 胃袋、空想は、それぞれ何を表わしているのでしょうか。

 マルクスは、註釈でニコラス・バーボンの著作(1696年)から引用しています。

 

願望は欲望を含む。願望は精神の食欲であり、肉体にとって空腹が自然的であるように、自然的である。大多数(の物)は、それらが精神の欲望を満足させるからこそ価値をもっているのである。(ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究。ロック氏の諸考察に答えて』、ロンドン、1696年。2、3ページ。)岡崎次郎訳。)

 N・バーボンの著作を開くと、引用された箇所の少し前に次の記載があります、

There are two general uses by which all things have a value: They are either useful to supply the wants of the body or the want of the mind.

二つの一般的な用途があり、これらによって、全ての物が価値を持つ。全ての物は、身体の欲望または精神の欲望を満足させる。(ブログ主による訳。太字強調はブログ主。)

 

 

 

 胃袋は身体的なこと、空想は精神的なこと、をそれぞれ代表している、ということのようです、

 ただ、「おしゃれはどうなるのか、ただ寒さをしのげたらいいというわけではないでしょう。」「食べることにしたって、盛り付けとか色合いとか、気にするでしょう。」とか、身体的なこと・精神的なことは二者択一ではないのではないか、という疑問がただちに生じます。

(胃袋は、食欲を指しているのか、それとも栄養を摂取する必要のことを指しているのか、という問題もあります。)

「食事は、単におなかがふくれたらいいわけではない」というマルクスの考えは、次の箇所からうかがえると思います。

 

資本は、食事時間をへずり、できればそれを生産過程そのものに合併する。したがって、ただの生産手段としての労働者に食物があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械に油脂が加えられるようなものである。(ディーツ版23巻280頁。岡崎次郎訳。)

 

 この箇所は、「食事のための休憩時間などぎりぎりまで切り詰めたらよい、5分で食べて仕事に戻りなさい」とか、下手したら「機械のそばで食べたらいいんじゃない?」と言いかねない、というのが資本の論理である、というふうに聞こえます。