うとうととして

古典を少しずつ読みます。

決定的に革命的な機械、・・・それはミシンである。(資本論、ディーツ版495頁)

決定的に革命的な機械、すなわち、婦人服製造、裁縫、靴製造、縫い物、帽子製造、等々のようなこの生産部面の無数の部門をすべて一様にとらえる機械、------それはミシンである。

  (岡崎次郎訳)

  Die entscheidend revolutionäre Maschine, welche die sämtlichen zahllosen Zweige dieser Produktionssphäre, wie Putzmacherei, Schneiderei, Schusterei, Näherei, Hutmacherei usw. gleichmäßig ergreift, ist - die Nähmaschine.

 (原文)

 

 裁縫と縫い物は似たことばです。違いは何でしょうか。日本語であると、裁縫は包含する内容が広く、服製造も帽子製造も含んでしまいます。(靴製造は含むかどうか、わかりません。)なので、とまどいます。

 裁縫のもとのことばはSchneiderei。このままの形では、デイリーコンサイス独和辞典には載っていません。Schneiderの語義はテーラー、仕立屋、洋服屋、洋裁師。下記のNähereiの語義から推して、Schneidereiの語義は仕立業、服製造業、ということになりそうです。動詞の形はschneiden。語義は切る。用い方は花を切るとかパンを切るとか。(語義、用い方はデイリーコンサイス独和辞典から。)

 縫い物のもとのことばはNäherei。語義は針仕事、縫物。動詞の形はnähen。語義は縫う、縫って留める、縫って作る、縫い合せる。(語義はデイリーコンサイス独和辞典から。)

  裁縫は服製造、縫い物のところは縫製、と置き換えると

「決定的に革命的な機械、すなわち、婦人服製造、服製造、靴製造、縫製、帽子製造、等々のようなこの生産部面の無数の部門をすべて一様にとらえる機械、------それはミシンである。」

と、すんなり読めます。

 

 ただ、これで話は終わりません。Nähereiが、日本語の裁縫に似て、婦人服製造、衣服製造、普通の縫製を包含する(総称する)ことがあるようです。 資本論注89(ディーツ版270頁)のリチャードソン医師の文章から引用された中に出てきます。ただ、もともとは英文です。

各種の裁縫女工や婦人服製造女工や衣服製造女工や普通の裁縫女工は三重の困苦に苦しんでいる------過度労働と空気不足と栄養不良または消化不良とである。

岡崎次郎訳)

Näherinnen aller Art, Putzmacherinnen, Kleidermacherinnen und gewöhnliche Näherinnen leiden an dreifachem Elend - Überarbeit, Luftmangel und Mangel an Nahrung oder Mangel an Verdauung.

(原文)

With needlewomen of all kinds, including milliners, dressmakers, and ordinary seamstresses, there are three miseries — over-work, deficient air, and either deficient food or deficient digestion.

(英語版)

 岡崎次郎訳では、各種の裁縫女工、婦人服製造女工、衣服製造女工、普通の裁縫女工が並列されています。各種の裁縫女工と普通の裁縫女工の違いがわからず、立ち止まってしまいます。英語版を参照すると、上記のようにneedlewomen of all kindsが milliners、dressmakers、ordinary seamstressesを包含しています。次のように「すなわち」を補うと、また、「各種の」を「あらゆる種類の」とすると、すんなり読めます。

あらゆる種類の裁縫女工すなわち婦人服製造女工や衣服製造女工や普通の裁縫女工は、三重の困苦に苦しんでいる------過度労働と空気不足と栄養不良または消化不良とである。」

 

 

[註釈] 英語版は、Samuel Moore and Edward Aveling, edited by Frederick Engelsです。リチャードソン医師の文章のもとのものを載せたのか、ドイツ語にいったん翻訳されたものを英語に翻訳したものなのか、は、大事な点ですが、確認していません。

 

[参考文献]

道重 一郎(2002)、初期工業化都市の職業構造--18世紀後半のマンチェスター、経済論集〔東洋大学経済研究会〕 27(1・2):225-250。