うとうととして

古典を少しずつ読みます。

彼に特有な表現様式に媚を呈しさえした(資本論、ディーツ版27頁)

それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚(こび)を呈しさえしたのである。

岡崎次郎訳)

 今回検討した資本論の文の、特に注目した箇所の原文は次の通り。

… und kokettierte sogar hier und da im Kapitel über die Werttheorie mit der ihm eigentümlichen Ausdrucksweise.

  あの偉大な思想家、というのはヘーゲルのことです。

 媚を呈する、って、色目を使う、とか、しなだれかかる、とか秋波(しゅうは)を送る、とかの縁語です。この文脈で出て来られても困惑してしまいます。

 元のことばはkokettieren。語義は媚態を作る、媚を振りまく、色気を振りまく⦅mit+人の3格 ..に⦆;ひけらかす⦅mit +物の3格 ..を⦆(語義はデイリーコンサイス独和辞典から。)

「また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式をひけらかしさえしたのである。」

と、「ひけらかす」に置き換えると、しっくりきます。こうしてみると、(今にして)気付くのですが、媚を呈するということばは、通例(たぶん)、「彼に媚を呈する」とか「ヘーゲルに媚を呈する」のように、人に対して用いられます。ここでは、表現様式に媚を呈する、と、物に対して使われています。冒頭に記した、どうしてこの文脈で?ということに加え、通例人に対して使われることばがここでは物に対して使われているということも、違和感の原因でした。 

 ここまでで、90%くらいは解決しました。デイリーコンサイス独和辞典が役に立ちました。

 これ以降は余談ですが、興味あればお付き合いください。

 

 中国語版資本論の該当箇所をgoogle翻訳で翻訳すると、披露する、という訳を提示してくれます。「媚を呈する」を「披露する」に置き換えると

「また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式を披露さえしたのである。」

 となり、しっくりきます。

 

 参考文献にあげた中川正弘先生の論文では、ロラン・バルトの著書の翻訳につき吟味されているのですが、その中の65頁で、フランス語のcoquetterieの翻訳に関して吟味されています。

 

[参考文献] 

中川 正弘 (2013)、Roland Barthes : Le Degré zéro de l'écriture : 日本語翻訳と記号の戯れ、広島大学フランス文学研究 (32): 53-73。